フィールドエッセイ「旅と自然の心象スケッチ」 第1652回
安曇野巡礼、ロダン、そして田淵行男の言葉



安曇野は不思議なところです。
その自然と風土、歴史と民俗、宗教や芸術までもが世界に開けているような・・・
これまで、どれほど多くの芸術や文学を目指す若者が、あるいは、アルピニストやナチュラリストが
そしてまた伝道師たちがこの地に心を寄せ、終の住処としようとしたことか・・・・・

北アルプスの冷たい雪解け水が伏流し
安曇野の至るところにこんこんとわきでる湧水、そしてワサビ田、
そんな情景を懐きながら、台風5号が接近する2017年8月7日、特急あずさ号に乗車したのでした。
昨年の夏は立山・室堂でライチョウを、一昨年は志賀高原でモウセンゴケを観察し
その前の年の夏には・・・、確か小笠原の母島でメグロを追っていた・・・
今年の夏は、安曇野を巡りました・・・

子どもたちは独立し
これからは、もう、自分自身を生きよう・・・、そう決めての老夫婦の夏の旅・・・
安曇野でのお目当てはあるようで無いに等しいのですが、密かに期待していたところがありました。
「碌山美術館」、そして、もう一つは「田淵行男記念館」でした・・・



碌山美術館、ナツヅタの緑が印象的でした・・・

初めてここを訪ねたのは1995年7月、22年も前になります。
芸術家にしてクリスチャンでもあった萩原碌山の作品群に初めて触れたときの感動
中でも「腕を後ろ手に組み、体を右に回転しながら天空を仰ぎ見る女性像」
作品「女」に秘められた碌山の人妻への想い・・・
今回もじっくりと味わうことができました。


教会の中に展示された碌山の作品群
手前右側が作品の「女」

明治12(1879)年生まれの碌山
安曇野の相馬家に嫁いだ黒光が持参したという油絵「亀戸風景」を見て、感動、啓発されたのが芸術家としての碌山の始まりでした。
初めてこの「亀戸風景」をみたとき、私も別の意味で、絵の前で釘付けになったことを思い出しました。
東京の下町、亀戸から錦糸町界隈で、伊藤左千夫が牧場を経営しつつ短歌をつくっていた、
その時代考証に欠くことのできない作品を発見したのでした。
拙著『江戸東京の自然を歩く』(中央公論社) p.176-177
「仙台堀川と亀戸原風景」の中で紹介したように
一幅の油絵が一人の青年の人生に
決定的な影響を与え・・・同時に
左千夫の生きた時代の亀戸
も蘇ったのでした。




長尾杢太郎作の「亀戸風景」
もう一度この絵をみたい・・・、再会を楽しみにして館内を探したのですが・・・、見当たりません。
現在は展示していないとのことを知り・・・、何とも残念でした・・・、が
7/1~9/3 「ロダンの言葉」特別展が開催中でした。
碌山のパリ時代に影響を受けたのがロダン
その言葉を高村光太郎が翻訳したのが

「ロダンの言葉」です。



「自然を師とせよ」
ロダンが碌山におくった言葉でした。


『ロダンの言葉』の本
「たしか、お父さんの書棚にありました・・・」
家内の言葉通り、画家であった義父の書棚にありました。
右から左へと文字が並びます・・・ 『葉言のンダロ』 訳雄達川古



『葉言のンダロ』 訳雄達川古
昭和17年8月発行 1500部発行、2円80銭


戦時下にあって、よくぞまあこのような芸術関係の本が出版されたものです。
義父は、その当時2円80銭を出して購入、どのような想いでロダンの言葉を読み解いていたのでしょうか・・・・
ところどころに引いた鉛筆のアンダーラインを見ながらあれこれと想像してしまいました。
紙質が悪く、ちょっと手を触れると、カバーの紙はボロホロに砕けてしまいそうです。
赤褐色に変質した頁をめくると、綴じがバラバラに・・
75年も前の戦中の本、貴重本です。

最初の章、「ロダンの遺言」の一部を、筆者が現代意訳したものを
紹介させてもらいます。


たゆみなく練習したまえ・・・、
芸術とは感情にほかならない。然しながら、創作のための技術なくして、その感情をどのように表現できるといえようか・・・
天才といわれる詩人であっても、言葉を知らぬ異国にあっては、いかんともし難いではないか・・・・」

「若い人達に私は言いたい・・・、真実であれ。だがそれは正確であれという意味ではない。
浅薄な正確というものが横行しているではないか・・・、すなわちそれは写真であり、鋳型複製のそれである。
芸術は表面的な形ではなくして、内的真実をもってのみ始まるのである。」

「例え一人といえども、信じる世界を表現せよ。
今はだれもが非難し、悪評を浴びせようとも・・・、いずれは味方し、評価してくれる時がやってくる。
一人の人間にとって深い真実であるものは、万人にとっても真実だからである
「世俗的な、あるいは政治的な関係を結ぼうがために、 (かけがえのない) 時を失ってはならない」


碌山美術館を出て、目の前の蕎麦屋に入り
美味しい天ぷらソバを食べ、腹ごなしに穂高駅近くの「穂高神社」を散策しました。
杉の巨木あり、神楽あり、そして偶然にもものぐさ太郎の石碑を見つけました。
石碑の隣には折口信夫(1887~1953)の歌碑がありました。
折も折、今年は折口信夫生誕130年です。

ものぐさ太郎 このよひはやく ねぶるらし
あづみの大野 こほりそめつつ
釈超空 (折口信夫の号)

「学者というには詩人の側面が強く、詩人というには学者の足跡が濃い」と評された折口信夫 (朝日新聞2017/8/24)、
日本の言葉以前には何があるのか」という根源的な問いを、今なお突きつけてきます。
科学者、文学者、芸術家、宗教家、教育者、思想家といった範疇をはるかに超えた、
一人の人間としての生き方・・・、それが、宮沢賢治であり、木下杢太郎であり、
折口信夫や南方熊楠であり、ダ・ビンチではなかったか・・・
もっと、もっと自由に、そして無限の宇宙を
羽ばたきたいものです。


穂高ビューホテルで一泊し
翌日は、穂高駅前で電動のレンタサイクルを借りて安曇野を一巡しました。
ロダンの言葉にも通じるような、ロダンを越えるような世界に
出会うことになりました・・・・

東光寺で真っ赤で巨大な下駄を見たり
大王わさび農場では、道祖神やハグロトンボなどを撮影し、
清流にそよぐ水草の緑の美しさににすっかり心を洗わました。
水田地帯ではツユクサの花やを稲穂の上を飛び交うツバメの群を追い求めました。

「水色の時」道祖神から早春譜の歌碑を巡り、
万水川沿いの「せせらぎの小径」を通りかかったところでにわか雨に遭遇
「おひさま」ロケ地のワサビ田を経て、ようやくにして田淵行男記念館にたどり着いたのでした。
振り向けば、もう人生の後半、いつまで自転車をこぎ続けられることか・・・
考えても詮方なしなのですか、こうして何とか二人とも元気で
安曇野を巡れたことに思わず感謝したのでした。




こんこんと湧き出る泉に囲まれた田淵行男記念館
何年ぶりかに橋を渡り、常設展示を一巡し、
田淵さんが使用したという撮影機材
山中でビバークした独り用テント
それも自分でデザインして
特注で製作したもの
そのこだわりの
逸品ばかり


記念館の常設展示(左)、記念館を取り巻く水の流れ(右)

学芸員の伊藤さんによれは、地下1階のピロティーでは
昨年までツバメが繁殖していたとのこと、古巣を確認できました。
水辺に近づくと、次々と足元から飛び出てくるカエル・・・
トウキョウダルマに似てはいるものの、
関東地方にはいないカエル・・・
トノサマガエルでした。



「田淵行男細密画展」 (2017.7.4~2017.9.3)

東京で博物学の教師をしていたころ、蝶の翅の色彩に魅了され、
そのデザインの生態学的意義について追求したそうです。
すべての蝶に共通する色彩が「黒」であること
生物の造型的な美しさ、完成度の高さを
遺憾なく追求した若き日の田淵さんの
蝶に対する情熱が゛ジワリと
伝わってきました。

「田淵行男」と言っても
若い人は、「・・? 知らない・・」、という人もいるかもしれません。

1905年鳥取県生まれ、東京高等師範学校・博物科を卒業
旧制中学や府立女子師範(現在の東京学芸大学)の博物学教諭
1945年、40歳の時、安曇野に移住、フリーのカメラマン、高山蝶の研究に取り組む
『わが山旅』『ヒメギフチョウ』『高山蝶』『北ア展望』『山の季節』『山の意匠』などを次々と発刊、 1989年 83歳で他界。
他界した翌年の1990年 田淵行男記念館開館

知る人ぞ知る蝶の研究者、山岳写真家
私の最も尊敬するナチュラリストの一人です。
田淵さんの著書はなかなか入手困難、絶版にして高額です。手元にあるのは、
『山は魔術師 私の山岳写真』(実業之日本社1995)、縁あって出版社よりいただました。
掲載された写真はもとより、それ以上に、写真や自然に対する「田淵哲学」の奥深さに惹かれます。
構図とテクニック、濃淡の配分、単純化、量感の表現、近景について、高度感と傾斜感、部分の大きさと強さ、望遠と広角・・・など
何回読んでも、何十回読んでも、その都度納得することばかり
写真とは何か、自然を撮るとはどういうことなのか
その本質が理解できる、私にとっての
今もってバイブルです。

今となってはもう約半世紀前のこと
大学で卒業研究を行うにあたり、私は山岳地帯の動物の生態についてやってみたいと漠然と思っていました。
(その動機たるや、単純にして不純、ひたすら山に登れるのでいいのかな・・・という程度のものでした)
どんな生物を対象にすべきかあれこれ迷っていた時期がありました。
指導教官のM先生より田淵さんを紹介していただき、
安曇野に移住し弟子入りする可能性がありました。
人生には、「もしも、あの時・・・こうしていたら」
という分岐点がいくつかありますが、
別の人生を歩んでいたに
違いありません。

結局私は、菅平高原の高原生物研究所(当時の名称)で
根子岳をフィールドに、ミヤマハンミョウとニワハンミョウのの分布と棲み分けに関する研究に取り組みました。
http://www.sugadaira.tsukuba.ac.jp/
http://www.sugadaira.tsukuba.ac.jp/outline/hist.html
お蔭様で、連日、2000m級の山に登り、お花畑の山道でハンミョウを追いかけました。
大学の先輩であり、まかり間違えれば弟子入りしていたであろう田淵さんとの直接のご縁はありませんでした、が
その後も、ずっと田淵行男の生き方、作品、自然に対する考え方などを
そっと遠くから、注目してきたのでした。

今回、記念館を訪問した際にいただいたのが
『田淵行男が愛した安曇野』(田淵行男作品集) (2015年) です。




72000点の作品の中から
写真家で田淵さんの一番弟子とも言われる水越武氏が厳選、編集した作品集です
第一章はモノトーンの、山と里山、安曇野の作品群。
第二章は、安曇野の大地と天空との出会い
第三章、安曇野讃歌・点描

あれこれと駄文を書きつらねてきましたが゛ここからが本論です。
自然に対する考え方、哲学が随所に感じられるのが 「第三章、安曇野讃歌・点描」です。
以下に引用した文面は私の心に響いた部分です。

「生態の探求は探偵の行き方とよく似ている。些細な手掛かりに希望をつないで、糸をたぐるように目標に迫っていく。
こうした捜査方針が図にあたると快刀乱麻を断つといった案配に新事実をつきとめ得て爽快である」(1995)

データを集めるほどある意味で結論は出しにくくなるのを感じている。
それは自然の尺度が桁違いに大きく、その様相に底知れ変化があるからである。
事実、私のノートは年ごとに新しいケースがたまっていく。この点,、どこまでやってきりということがない。
殊にこれを公表する様な場合、5年や10年で集積したデータでは誠に頼りない気がする」(1955)

「私は元来蝶が人一倍好きな癖に標本というものを貯えたいと思ったことはない
と言うのは生態を見慣れているとその生きた姿と余りにもかけ離れているので幻滅を感じるからである。
と言っても生態研究の副産物として僅かながらたまってはいる。
それらを私は眺めないわけではないが決してそのまま目で眺めていない。
心でそのかつて在りし日のイメージをまさぐり求めているわけである。
私の標本はかつてのその蝶との交歓の思い出の縁(よすが)にすぎぬのである。(1966)

「・・・、私の心の中にいつとはなしに
この安曇野から眺めた山の姿が次のカメラワークのテーマとして根を下ろしてしまった。
遠くから眺める山、距離を挟んで向かい合う山の姿に、昔の人の辿ってきた山への帰依が感じられ、
遠い祖先の生活が結びついた素朴な山への観照が甦ってくるからである。
それは山体深く没入していたり、激しい登攀に全力を傾倒させていては決して巡り合うことのできない一面であった。
私はそうした山麓からの山に、日本の山らしい快い安らぎと懐かしさを覚えると共に、
民俗のくすんだ匂いを嗅ぎ出してひたむきな郷愁に駆り立てられる。」(1972)

田淵行男は「孤高の人」、と評されことが多いのでずが、しかし、
本当の意味で孤高ではない、ということがこれらの文面から感じ取れます。
彼の歩んできた道は、まっとうであり、深く掘り下げられた世界であり、それゆえに
こうして生き残り、私の心を捉えて離しません。

「一人の人間にとって深い真実であるものは、万人にとっても真実だからである
(ロダンの言葉)

ロダンは写真を「浅薄な正確」と評したのですが、しかし、
田淵行男の写真の世界は、ロダンの言葉を克服し、万人にとって納得できる写真芸術の域に到達している・・・
私には思えてなリません。


ロダンの言葉、田淵行男の言葉、両者に共通しているのは、
真実なり真理を求めてやまない精神であり、芸術家は内面の真実をひたすら求め・・・
ナチュラリストは自然の真理を探求してやまなかった・・・・・、掘り下げて到達した地下水脈は共通していたに違いありません。
「孤高の人」と世間で評される人の多くは、真実や真理を追求するという点において、
時空を超えて、多くの盟友で結ばれているように思えました。

斯くして、今年の夏も終わり
この拙文を書き終えた今はもう9月、庭ではエンマコウロギが鳴き
あと数日でヒガンバナが咲きそうです。



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