フィールドエッセイ「旅と自然の心象スケッチ」  第1284回

謹賀新年

こだわりの一枚、赤城山

2011(平成23)年正月


 

2011(平成23)年を迎えました。

今年がどんな年になるのか、本当は誰一人分からないのてすが、

「常にフィールドにあって感じ取ること」、をモットーにしているこのささやかな心象スケッチが

皆さんの内なる心象世界と共鳴できる部分がほんの少しでもあればまことに幸いです。

 

本年も宜しくお願い致します。

 

さて、今回のエッセイは、

先週の25日、2010年12月25日のことになります。

 

「5年に一度の開催ってなに・・・?」

「4年に一度ならオリンピックだけど・・・、5年に一回ですか・・・?」

都市鳥研究会の会員なら、5年に1回の「都心のカラス調査」を思い浮かべるかもしれません、

役所の人なら国勢調査を、ピアニストなら「ショパンコンクール」ということになるでしょうか・・・。

 

「ちょっと録画をお願い・・・」

そう言われて録った画像を再生、視聴してみました。

5年に一回開催されるショパンコンクールの、2010年の優勝者 ユリアンナ・アヴデーエワが奏でる

「ピアノ協奏曲第一番 ホ短調 作品11」、ショパンの作品に改めて感動したのでした。

 

帰りたくても帰れない・・・

遠い故国に寄せる切ない想いなのでしょうか・・・、それとも、二度と戻れない遠い日々への追憶と感傷でしょうか・・・

ショパン生誕200年、今なお多くの人々の心の琴線に触れ、時代や国境を越えて感動を与えてくれる音楽とは何なのでしょうか・・・。

25歳のアヴデーエワの、いとも簡単そうに鍵盤をたたくテクニックや度胸のよさに

もっと情緒的であってもいいのかな・・・、そんな不満さえも聞えそうな・・・

どの世界も、若者たちのレベルは確実にアップし

今という時代を感じさせてくれます。

 

「たしかこの辺りだったのだが・・・?」

あれは夢であったのかも・・・、高校時代に下宿していた家はどこなのか・・・

二階建ての旧家も、銭湯の煙突も、理髪店やパン屋さんも・・・、何一つ見つかりません。

時間がなかったこともあり、萩原朔太郎の生家も、大学受験の勉強をした図書館にも辿り着けませんでした。

地面を走っていた両毛線は高架になり、道路は拡幅され、沿道の建物もすっかり様変わりしてしまい、

記憶の中の風景ばかりが鮮明に輝いているものの

時代に取り残された浦島太郎でした。

 

2010年12月25日(土)

この日、私は、冬の赤城山の写真がどうしても必要でした。

カラサワールド自然基金に寄せられた基金で、関東では赤城山にのみしか生息していないヒメギフチョウについて、

その保護や自然観察会などに取り組んでいる「渋川市立南雲小学校」の活動を支援したい、

その一心で小冊子の作成に取り組んできましたが、

ほぼ編集を終え、校正の段階に入りました。

 

『赤城姫 早春に舞う』

〜ヒメギフチョウを守る小学校〜

本のタイトルも、サブタイトルも決まり、写真もキャプションもほぼ仕上がりました、が

ヒメギフチョウの生息地である赤城山の

気に入った遠景写真がありません。

 

ヒメギフチョウが春までの長いあいだを越夏し、

越冬している「赤城山」の写真がどうしても欲しいのですが、

これまでにも4回ほど赤城山を撮ろうとしました・・・

渋川市の姉の家の近くの見晴台、伊香保温泉への途中の景勝地からの眺望も素晴らしかったのですが、

また、群馬県庁の32階の展望ホールにも2回ほど出かけたのですが、

山頂付近のガスや雲、デジカメの調子が悪かったり

必要な写真が撮れませんでした。

 

編集をお願いしている仮谷さんから

校正ゲラが送られてきましたが、仮に掲載しておいた赤城の写真だけが見劣りしてしまいます。

赤城山の写真のために、また群馬に出かけるのも大変です。

そのままそっと、目をつむって出版してしまう

ということもアリか、とも思うのですが・・・

 

2010年12月25日、朝から快晴。

青空をみているうちに、市川駅から東京駅へと急ぎ、新幹線に飛び乗りました。

「本庄早稲田」駅付近に差しかかったとき、車窓の彼方に、赤城山がくっきりと見えてきました。

この青空、裾野の長い稜線、そして僅かに雪をいただいた山頂付近・・・

ようやく、求めていた赤城に出会えました。

 

 2階建ての新幹線「MAX」の車窓かから眺めた赤城山〜埼玉県の本庄付近〜

 

撮った写真をその場で再生、よ〜くみると画面の右側に白い縦の筋

新幹線の窓ガラスに車内の光が反射しています。

手前の人家もイマイチです。

 

やがて、電車は群馬県へと入りました。

高崎駅のちょっと手前からみた赤城・・・、なかなかの景観です。

手前に流れる川、高速道路、その向こうには、長々と裾野を広げる赤城が見えます。

                                                 

高崎駅のちょっと手前の車窓から撮った赤城山

 

「この写真でもいいかな・・・」

しかし、「高崎」の手前というのが引っかかります。

渋川市か、あるいは前橋市から見た赤城にしたい・・・・

かつて自分が過ごした、前橋へのこだわりがありました。

 

高崎駅で下車し

両毛線に乗り換えて「前橋」へと向かいしまた。

その間にも、晴れていた空には徐々に雲がかかってきました。

せっかく前橋まできても、雲におおわれた赤城山では台無しです・・・、急がなければ・・・

前橋駅で下車するやタクシーに飛び乗り、県庁32階の展望ホールへと急行。最初にシャッターを切ったのが下の写真です。

 

県庁32階の展望ホール、地上170mからの眺望です。

 

う〜ん、山の形は素晴らしいものがあります・・・、が

新幹線の中から見たときは、きれいな青空だったのに・・・

満足した写真ではありませんが、高校時代を過ごした前橋の市街地と、

上毛カルタで有名な、裾野は長し赤城山 に関しては何とか表現できています。

その後、雲の動きを辛抱強く(?)待ちながら、何十枚も撮りました。

 

『赤城姫 早春に舞う』

この中で、はたしてどんな赤城山の写真が掲載されることになるでしょうか・・・、

2月の出版をご期待下さい。

 

(今回のエッセイ、実は、ここからが核心部です・・・)

 

県庁からの帰路

バスに乗って前橋駅に戻ろうとしました・・・、が

何と、県庁の真ん前のバス停で唖然としてしまいました。

次のバスが、2時間近くもないのです。

 

目の前には広くて立派な道路があり、

たくさんの車が通りすぎていくのですが、バスもタクシーもないのです。

携帯電話をもっていない私は、県庁所在地のど真ん中で放り出されてしまいました。

そういえば、群馬や栃木、茨城などでは、車がないと生活が成り立たないと聞きましたが、その通りです。

 

気分をかえて、駅まで歩いてみることにしました。

街はすっかり変わってしまったものの、少しずつ昔の街の骨格を思い出しました。

そうして、いつの間にか、むかし下宿していた家を探していたのでした・・・・・

 

前橋女子高校がこのあたり・・・

「前橋一中」や「刑務所」の方角に向かって、両毛線の踏み切りをこえて右手・・・・

遠い記憶をたどりながら、ついに、「ここにちがいない」という場所に立ちました。

 

半世紀前、「たしかに私はここにいた」 という場所に立ちました・・・

 

しかし、通りはすっかり拡幅され

電柱はなく、電線は地下に埋設され、街路樹が植えられ・・・・、内なる世界の道路とは大違いです。

かつての「前代田町」という町名も見つかりません、が、土地の位置関係からして、ここにちがいありません。

お世話になっていた「大国牧太郎さん」(仮名)の家を探しました・・・、が

記憶の世界にある2階建ての旧家も、イチヂク畑もありません。

 

「すみません、突然ですが失礼します・・・。ここら辺に、昔、大国牧太郎さんの家があったはずですが・・・、

私、高校時代に下宿し、お世話になった者ですが・・・」

「・・・・、そうですか、牧太郎さんはずっと前に亡くなりました・・・。その息子も亡くなり・・・、

牧太郎さんの孫の健二さん(仮名)とお母さんはお元気です・・・、隣の家にすんでいますよ・・・」

 

隣の家のインターホーンを鳴らしました。

60歳代の男性が出てきました・・・、記憶の中のどこかにあるような、面影が甦ってきました・・・

「牧太郎さんのお孫さんの健二さんですか。やはりそうでしたか。私が67歳なので、66歳ということになりますか・・・」

牧太郎さんには、私より一学年下のお孫さんがいたことを思い出しました。

「祖父(牧太郎)も、父も亡くなりましたが、母はまだまだ元気です。93歳になります・・・、

よかったら上がって下さい・・・、母も喜ぶと思いますよ」

 

その当時、賄い付きの下宿だったので、

「おばさん」に朝夕の食事の世話をしてもらっていました。

「おばさん」は、健太郎さんのお母さんですが、当時は40歳代でした。

93歳になった「おばさん」の顔を見ただけで、もう、もうそれだけで言葉になりませんでした。

堰を切ったように、当時の記憶が一気に甦ってきました。

正確にいえば、昭和33年4月〜37年3月の3年間、

まことにささやかな、一人の人間の過去の、

追憶の一断面にすぎません。

 

その人にしか知り得ない

ほんのさやかな追憶の一断面、その重なりあいが人生かもしれません、

その人生の一断面に、はっとする部分があるとすれば、

そこにもう一つの人生が重なって

そうして人生という現象が

点滅を繰り返します。

 

ショパンのピアノ曲を聴くたびに

そこはかとなくただよう哀愁と共に、その悲しみに負けまいとする芯の強さが伝わってきます・・・

ドイツとロシアの大国に挟まれた小国ポーランドの厳しい歴史と現実、

踏みにじられた民族と、民族への誇り、そして切ない郷愁・・・

アヴデーエワのピアノにただようショパンの世界です。

 

アフリカの黒人の一人が、

自身のルーツを求めて、遠いアフリカにまで旅したくなるように・・・

中国に残留した孤児が、60歳になっても、70歳になっても肉親を探し、望郷への思いが断ち切れないように、

自分が歩いていたきた過去の道標の一つ一つを確かめたいという願望・・・

しかし、それは諸行無常、戻るべくして戻れないものへの

人という動物の不思議な現象であります。

 

前橋から帰宅して数日後、

私の手元に一通の手紙が届きました。

 

「先日は思いもかけずにお会いできて、おなつかしゅうございました。

当時のことを思い出し懐かしんでおります・・・」

 

「おばさん」からの返信でした。

一緒に撮った写真を添え、お礼状を出しました。

 


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