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アサヒグラフ 2000年6月9日号 焼けイチョウ
〜東京大空襲の鎮魂歌 百年の記憶(連載71)〜
写真と文:唐沢孝一
モーニング娘が飾った「アサヒグラフの表紙」 6月9日号の紙面
百年の記憶
一本の巨木に魅せられ、幹に刻まれた人と自然の織りなすドラマに
これほどまでに心を奪われたことがこれまでにあっただろうか。
遠くからは、どこにでもありそうな鎮守の森の一本のイチョウのように見える。
しかし、
初めて幹を見上げた時の、ハンマーで後頭部を打ちのめされたようなあの衝撃を私は今でも忘れることはできない。
東京の下町、飛木稲荷神社(墨田区)の大イチョウは、
太さ四・九メートル、推定樹齢5〜600年。区内随一の大木である。
幹は太いのに樹高は一五メートルほどしかない。
手足を失ったダルマのように、全てを焼かれた「焼けイチョウ」だからである。
幹は根元から黒々と炭化し、上方で四〜五本の太い枝に分かれ、いづれもその先端まで燃え尽きている。
焼けてから既に55年の歳月を経たが、
今でも煙が燻っているかのように黒光りしている。
一九四五年三月十日未明、アメリカ軍の焼夷弾投下によって下町は火の海と化し、大イチョウも被災した。
幹には、東京大空襲の猛火の中で命を失った10万人もの犠牲者の悲痛な叫び声と惨状が刻印されている。
大空襲の時、折からの東の風に煽られて飛木稲荷が炎上。
本殿からの炎を浴び、大イチョウも類焼した。
当時13歳であった藤田照子さんは、次のように書き残している。
「・・・・何しろ吹きすさぶ烈風に爆弾による火災が風をよんでまともに立ってはいられません。
また、火を見た恐怖とで、綱にしがみついて歩くのが精一杯でした。
どの道を通ったのか、どこで野宿したのか、いまだに分かりません。
・・・・夜明けとともに上野まで見渡せるような一面の焼け野原、
まだ燃えくすぶる火、焼けて垂れ下がっている電線、そして何よりも初めて相対した焼死体に大きなショックを受けての帰途でした。
飛木稲荷神社前の道路で火は止められ、幸い家は焼けず、母の無事も分かりました」
(「東京大空襲墨田区体験記録集」墨田区 1995年)
本殿西側の道路に沿って大イチョウと共に植えられている七〜八本のイチョウも、全て被災している。
しかも、焼け跡はどれも本殿側にある。本殿からの猛火を真っ正面から浴びながら、
炎を防ぎ、火の粉をくい止め、多くの人命と財産を守ったのである。
イチョウは、多量の水分を含み燃えにくいために「火防せの木」ともいわれ、神社仏閣の境内に植えられてきた。
昔の人の防火の知恵でもある。浅草寺(台東区)の大イチョウは、
関東大震災の大火の際に水を吹き、本堂を守ったという言い伝えがある。
甦る焼けイチョウ
焼けイチョウは瀕死の重症を負っている。
にもかかわらず、見上げる人に優しくうなずき、微笑み、時には威厳に満ちた芸術的オブジェのようにも見える。
炎上した時の激情は消え失せて、静かで、深い祈りに満ちた悟りの心境をさえ感じさせるのはなぜだろうか。
御神木としての威厳であろうか。
それとも、巨木だけが秘めている、時を超越した生命力のためであろうか。
三月の空襲で焼けてしまった飛木稲荷の大イチョウは、この年、新緑の季節を迎えても、芽生えることはなかった。
その次の年も、またその翌年も沈黙の春を迎えた。
黒い炭の塊のような幹に微かな生命の胎動が感じられたのは、五年目の春のことだったという。
風下側の幹の一部が生き残っていたのであろうか。
それとも、地下に張った根の組織が五年の歳月を経て幹を覆うように甦ったのだろうか。
いずれにせよ、黒々とした幹に初々しい緑の芽が出できたとき、人々の驚きと感動は計り知れないものがあったに違いない。
戦争と平和を繰り返してきた二〇世紀は、絶望と希望の繰り返しでもあった。
戦争で傷つき、敗戦で生きる目標を見失っていた人々にとって、
復活したイチョウは人々を励まし、戦後復興の精神的支えにもなったと言われている。
被災から半世紀以上を経て、幹の樹皮が盛り上がり、今なお傷口を塞ごうとしている。
四季の律動に呼応するかのように新緑が芽生え、夏には涼しい木陰を作り、晩秋には見事な黄金色に輝く。
そして新年を迎える度に、幹には真新しいしめ縄が巻かれ、真っ白な語弊がひらひらと風になびく。
焼けて空洞になった樹洞ではムクドリが子育てに励み、梢にはヤマザクラが芽生えて宿り木になっている。
焼けイチョウは、自ら甦り、しかも、多くの生物に住処を提供している「母なる木」でもある。
イチョウの強靱な生命力は、謎めいた飛木稲荷神社の成立とも深くかかわっている。
縁起によれば、大昔のある時、暴風雨の際、どこからかイチョウの枝が飛んできてこの地に刺さり、根づき、いつしか巨木になったという。
このイチョウに因んで神社をお祀りしたことから「飛木」稲荷神社の名がつけられた。
では、飛んできた枝の一部から芽生えることはあり得るのだろうか。
このロマンに満ちた伝説は、はたして生物学的にも肯定できるのだろうか。
イチョウの生命力を示す伝承は港区麻布の善福寺にも残っている。
鎌倉時代に越後に流されていた親鸞上人は、許されて京に上る途中善福寺に立ち寄った。
その時、携えていた杖を境内にさし、
「念仏の、求法凡夫の往生もまたかくのごとくか」
(この杖が根づくように、凡人といえども念仏さえとなえれば往生をとげられよう)
と唱えると、
杖から根が生え、芽をふき、やがて枝葉が生い茂ったという。
今日、イチョウは挿し木で殖えることが実証されている。
杖から芽生えたという伝承は「根も葉もない」でたらめではなさそうだ。
というより、信仰を広める手段としてイチョウの逞しい生命力を積極的に利用したのかも知れない。
沈黙の語り部
都内最大最古といわれる善福寺の大イチョウは、江戸名所図会に描かれ、
大正15年国の天然記念物に指定。
しかし、1945年5月25日、山の手大空襲で被災して焼けた。
しかし、ここでも戦後の半世紀を経て枝葉が甦り、今では見事に復活している。
ほかにも各地に空襲や震災で被災した樹木が残っているのではあるまいか。
このままでは震災や戦災体験者は高齢化し、悲劇はやがては風化されてしまうのではあるまいか・・・・。
そうした思いに駆られて都内を、さらには広島、長崎、沖縄へと被災樹木を訪ねまわった。
東京都内だけで六〇ケ所二百数十本の被災樹木を調査し、広島や長崎でも逞しく甦った被爆樹木と出会うことができた。
阪神大震災後の神戸では、公園の樹木が延焼をくい止め「焼け止まり現象」が各所で見られた。
多くの生命と財産を守った神戸の被災樹木は、半世紀前の飛木稲荷の大イチョウを彷彿とさせるものがあった。
被災樹木は、大阪、京都、宇都宮、平塚、浜松などにも残存しており、今後の調査によってはさらに日本各地に散在していることが伺える。
また、甦った被災樹木はイチョウばかりではない。東京ではスクノキ、スダジイ、サンゴジュ、エノキ、プラタナス、カヤなど。
広島ではユーカリやシダレヤナギ、長崎ではカキやクスノキ。
激しい地上戦のあった首里城(沖縄)では
被災したアカギ(トウダイグサ科)の幹にアコウ(クワ科)が寄生して枝葉を伸ばし、亜熱帯の島に相応しい樹木が甦っている。
今年一月、これまでの調査をもとに、震災・戦災樹木について一冊の本にまとめることができた(『語り継ぐ焼けイチョウ』北斗出版)。
気づいてみると、調査を始めて五年の歳月が経っていた。焼けイチョウには、一本一本に歴史があり、ドラマがある。
やがて被災者の全てがこの世を去ったとしても、「沈黙の語り部」として後世まで生き続けることであろう。
写 真
(1) p..36〜37の見開き写真 「黄金色に色づいた晩秋の焼けイチョウ」(墨田区押上2〜39〜6
飛木稲荷神社)
(2) p.38 右上の写真 「焼けイチョウの樹洞で繁殖するムクドリ」(墨田区・飛木稲荷神社)
(3) p.38 左上の写真→「 焼けイチョウから芽生えたヤマザクラの宿り木」(墨田区・飛木稲荷神社)
(4) p.39 右上の写真→「戦災で焼けた浅草寺の焼けイチョウ」(台東区)
(5) p.40 左上の写真→「焼夷弾で被災した善福寺の焼けイチョウ(港区元麻布1〜6〜21)
国の天然記念物に指定され、江戸名所図会にも記載されている。